休みのあくる日

書誌事項

休みのあくる日
庄野潤三著
短編小説集
初出

休みのあくる日  群像  1971年10月号
砂金  群像  1974年1月号
組立式の柱時計  新潮  1971年11月号
餡パンと林檎のシロップ  文学界  1972年1月号
雨傘  新潮  1973年1月号
鷹のあし  群像  1973年6月号
花   小説中央公論  1961年3月号
話し方研究会  別冊小説新潮  1959年3月号
 文学界  1968年2月号
宝席のひと粒  文藝  1971年8月号
漏斗  新潮  1974年5月号
三宝柑  毎日新聞  1974年4-6月
引越し  海  1974年7月号
葡萄棚  群像  1974年10月

出版 新潮社 1975年2月10日 

紹介

 昭和34年に発表された随筆「自分の羽根」に、庄野さんは次のように書きました。即ち、『私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいとかんがえる。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何か読んだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとって痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。』です。

 短編集「休みのあくる日」は、いろいろ雑多な短編が混じっており、発表年代も出版された1975年の前の4年間と、単行本未収録の1958年から1968年の作品が含まれているのですが、この作品集の作者の目は、『自分の羽根』でいう「人から聞いたこと」で「自分の生活感情にふれたこと」に視点を寄せています。

 その例が表題作の「休みのあくる日」、そして「雨傘」と「鷹のあし」です。どちらも、庄野夫人と思しき『彼女』が電車の中でふと耳にする会話を描いています。ここで聞いている『彼女』と話している人たちは行きずりの無関係な人達ですから、話の内容に立ち入ることはできませんし、話をしている人たちが何故電車に乗っているのかも分りません。ただ話の断片があるのみです。しかし、こういう市井の人の何気ない話の断片の中に、「作者の生活感情に強くふれ、自分にとって痛切に感じられること」があるのでしょう。

 「休みのあくる日」では、背の小さい、髪を後に束ねてマフラーをした子と太った、丸い顔をした子、どちらも膝の短いスカートとスケッチ・ブックに大学ノート、同じ題の薄い教科書をもった女子大生らしき二人連れが、休日のドライブの話をします。太った方が小さい方にドライブのエピソードを話すのですが、小さい方が、話の区切りごとに「笑わせないで」と少しも笑わずに、また、笑いそうな気配もなしに言うところが妙に可笑しいです。

 「雨傘」も電車の中のOLらしき女性同士の会話。話の主筋は、遊びに来る彼氏のために用意する夕食の献立なのですが、話は色々なところに飛びます。食器を欲しいといってみたり、気持ちが悪くなって倒れたときの思い出話をしたり、馬券の話をしたりです。そうしながらも、着実にメニューができあがっていくのが面白い。そのメニューの組み合せ方や、最後に「スーパーへ行こうかな。いっぱい買うものがある時は、スーパーがいいんだ」という生活感に、作者は共感を感じているようです。

 「鷹のあし」は、『彼女』が駅のホームで聞いた、老人たちの会話。盆栽の話をしているようですが、その形容のし方に惹かれるものがあります。最初『彼女』は、老人たちが何の話をしているのかわからないのですが、聞いているうちに何となく松の盆栽の話をしているのが分ってくる。形容の奇妙さが解明されて行くところに面白みがあります。

 以上のような「他人の生活の断片」を描いた作品以外にも色々な作品があります。まずは、作者の家庭に題材を求めた作品。

 「組立式の柱時計」は明夫と良二の兄弟が主人公。最初と最後が明夫で真ん中が良二。この三部形式のコントラストに妙味があります。全体を通してあるのは「とぼけた味」だと思います。真ん中の良二の項での真の主人公は「テケシ」こと大沢武くんです。良二たちは、市の陸上競技大会で優勝し、作文を書いて提出しなければならないことになります。それを知らされた「テケシ」は、「えーっ」といって、「先生、おれ、馬鹿なの知ってんのかよ」というくだりがいいです。てけしは結局書くのですが、書いている場所が、教室の壁のすみのロッカーをずらして、隙間を作って、その中に隠れてです。先生が来て、大沢くんがそこに入ることが分ると、ロッカーを押していく。てけしは中から押し返す。その関係もとぼけていていいです。

 「餡パンと林檎のシロップ」もとぼけた味が持ち味です。予備校生の明夫と中学三年の良二。二人の関係はあいも変わらずです。勉強中の掘り炬燵での居眠り。夢の話。冷蔵庫の卵入れに入れた目鼻を書いたピンポン玉。兄が隠したアンパン。飛魚の干物を叩く。「ぐず」のエピソード。お風呂の火加減の失敗。とぼけた味わいのコンビネーションが素敵です。

 「漏斗」は、出入りの灯油屋さんが、石油缶の口を漏斗に合わせて広げる。その時していく、一寸した自慢話。遊園地の花火の時、屋台のプロパンガスボンベの安全監督に行く。高圧ガスの免許証をもち、普段着の作業服ではなく背広も着て行く。そうすると、指導を聞いてくれるという。そこに妙なおかしみがあります。

 「引越し」と「葡萄棚」は黍坂の和子もの。「引越し」は三軒並んだ借家の中央に住む和子の家の隣の「コーキ」ちゃんの家が、奥さんの申しこんでいた団地に急遽補欠で入居できることになり、引越しした時の顛末。ドタバタぶりを描きます。「葡萄棚」は、大家さんから貰った枝豆が消失する話。この顛末を和子が語ります。枝豆はねずみが引いて行ったもの。このねずみ退治に若夫婦は大童です。ねこいらずを食べて外にあわられたねずみは、子猫ほどもある大きさでまだ死んでいません。これを取り除くのに、若夫婦は苦労します。

 「宝石の一粒」は、子供の頃父親に連れて行ってもらった映画の話から、子供時代の家のことを思い出します。これは正にノスタルジーです。庄野文学は、昔のことを書いても(例えば「前途」)、ノスタルジーに流されないところが特徴だと思うのですが、宝石の一粒は、自分の覚えている光景の断片を繋ぎ合せながら、今は亡き父、母、兄の思い出を語ります。映画の思い出と重層的に描いているせいか、感傷的な印象が強い作品です。

 「砂金」、「花」、「話し方研究会」は、ガンビア留学時代の経験に題材を取った作品。「橇」は泥棒に入られた人の話。「三宝柑」は、毎日新聞に連載されたコラムです。

 庄野さんのこの時期の興味は、地に足をつけて暮らしている人の生活だったように思います。その成果は例えば「引潮」ですが、倉本平吉さんほどでなくとも、電車の中で友達と話している女の子でも地に足をつけて暮らしている人はいるということなのでしょう。一つ一つの作品の味わいは異なるのですが、全体に流れるトーンは、オプティミスティックな好感と申し上げるのがよいと思います。

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